旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。

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『旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。
      我等かのことばに従いてここに伏すと。』

古代ギリシアの詩人シモニデスの詠んだ詩です。
ラケダイモンとは古代スパルタ人が自らの事を自称した名称です。
この詩はわずか300人のスパルタ人達が圧倒的なアケメネス朝軍との戦いに挑み全員が討死した『テルモピュライの戦い』の悲劇を伝えるものです。


現在公開されている映画『300』はこの戦いをベースにした作品です。

歴史マニアの血が騒ぎこの映画も見てみたいのですが映画館など一軒も無いド田舎に住むワタクシとしましてはすでにDVD待ちモードに入ってます。
二月の『墨攻』も見れなかったのですが、7月にDVDが出るのでええ、当然買いますとも、原作の原作が敬愛する酒見賢一氏でありますし。
それはそうとして、僕が毎日徘徊しているギャオーディションブログ界隈でリサ・ディゾンこと川口りちゃさんがこの映画を見たとの事で感想を書いていたので、映画を見れないで悶々としている僕が映画ではなく(見てないですから)史実としてのテルモピュライの戦いについて書いてみようと思います。長文ですよ。覚悟してください。

300の力。|川口りちゃの☆MiracRoom☆


まず言っておくと、この映画では300人の兵士達が100万の軍勢と戦う…と言ってますがさすがにそれは史実ではありません。
この戦いを記録したヘロドトス著『歴史』には100万どころかさらに吹かして総勢200万の軍勢がギリシアに侵攻してきたなどと記録されているそうですが(ヘロドトスはまだ読んでないので伝聞ですが)、このあたりは純粋な歴史書としてよりも物語として書かれているという同書の性格からして間違いなく誇張です。
そもそも100万の軍勢の行軍など現代文明の生産力・兵站維持能力でもおそらく不可能です。
現代より遥かに劣る2500年前の生産力・経済力では100万人のご飯や装備などとても用意できません。
というわけで、100万の軍勢はさすがにあり得ませんし、このペルシア戦争に関してはヘロドトス著『歴史』以外の原資料が存在しないため正確な事はわかりませんが、現代の歴史家たちの間では皇帝直々のお出ましであった事から10万~30万程度の大兵力であったろうと言われてます。

それでも、平野部がほとんど無く農地の少ないギリシアの諸ポリスでは奴隷を含めた総人口ですら5万もいれば大都市であり、ほとんどのポリスがせいぜい市民千人とか2千人程度の人口でしたからギリシアにおいて現実的に出撃可能な兵力などせいぜい数千人といったところです。

と、いうことでギリシア側の兵力に関してはヘロドトスは非常に現実的な数字をあげています。ギリシア側の事情についていい加減な数字を書けば想定読者はギリシア人なんですから『そりゃないだろ』ってツッコミが入るでしょうからね。
ペルシア側の数字がいい加減なのは、ギリシア人ですから遠いペルシアの事情については情報も少なかったでしょうし、敵の兵力を誇張する事でいかに偉大な戦勝だったのかを訴えたいという、ある種のナショナリスト的発想もあったでしょう。

まあ、常識的に考えればペルシア軍が10万だろうと100万だろうとどちらにしてもギリシア側に勝ち目などなくはっきり言ってどっちでもいいやって感じだったのです。


『テルモピュライの戦い』

参考資料としてGoogleマップのマイマップ機能を使ってテルモピュライの戦場の簡単な地図を作成してみました。
上空から実際に見ることでだいたいの戦闘の感じが掴めるのでは無いでしょうか。

テルモピュライ(Thermopylai) 古戦場

古代オリエントの超大国アケメネス朝ペルシア帝国がギリシア・エーゲ海文明圏に侵攻した古代版『文明の衝突』ともいうべきペルシア戦争のハイライトとなるのがこの戦いです。
この時スパルタではアポロンを祭るカルネイア祭の最中で出兵が制限されていたためレオニダス王はわずか300人という寡兵で戦うことを余儀なくされます。
しかし人類の歴史上おそらく最強の戦闘民族国家であったスパルタ軍は大軍が展開できない狭いテルモピュライという戦場の利もありペルシアの軍勢を寄せ付けません。
スパルタ軍の奮戦に手を焼いたペルシア王クセルクセスは最精鋭兵士たちを集めた虎の子の不死隊を投入、ついに深夜ギリシア軍の防衛ラインを迂回するアノパイア間道を突破、防衛戦を突破されたギリシア同盟軍はスパルタ・テーベ・テスピアイの部隊合計1000あまりを残し撤退します。
その後残ったギリシア軍はそれまでの専守防衛から撃って出てスパルタ軍300人は玉砕、降伏したテーベ・テスピアイの同盟軍はペルシア軍に編入されます。


このテルモピュライの戦いで敗北したギリシア連合は大きく戦線を後退、有名なアテネ・デルフォイなどの都市国家群がペルシア軍によって陥落・略奪の憂き目をみる事となります。
しかし、このテルモピュライの戦いがおよそ1週間に及ぶものであった事が後の歴史を大きく変える事になったのです。


テルモピュライにおいてスパルタ軍がペルシア軍を食い止めている間にアテネでは住民の避難が行われアテネ海軍は無傷のまま温存されました。
このアテネ海軍が後に執政官テミストクレスの計略によってサラミス水道で行われた決戦でペルシア艦隊を撃破し皇帝クセルクセスの野望を打ち砕くことに成功します。
この敗戦により制海権を喪失し陸上部隊への支援継続が不可能となったペルシア軍の進撃は停滞し、皇帝クセルクセスは艦隊をつれて国へ帰ってしまいます。
残った陸軍を任された将軍マルドニオスも芳しい成果をあげる事が出来ず、大軍で敵地への遠征を行っているアウェーのペルシア軍は徐々に苦しくなってきます。
そして、お祭りが終わって出撃してきたスパルタの大軍を中心とした無傷のペロポネソス半島の諸ポリス軍たちと合流したギリシア同盟軍は一転攻勢に出ます。
このプラタイアの戦いで騎兵を中心としたペルシア軍はギリシアのファランクスに大敗し拠点としていたテーベを奪回されギリシア本土から完全に撤退する事になります。

現在のヨーロッパを構成する西洋文明はローマ帝国を母体として生まれました。
そして、ローマはギリシア文明の辺境の都市国家としてギリシア文明の影響のもとで成長しました。
そのギリシア文明とアジア・オリエントの文明であるペルシア帝国の戦いがギリシア側の勝利で終わった事でギリシア文明のアジア化が防がれ、後の西洋文明の誕生に繋がっていきます。
スパルタのあの300人がペルシア軍を1週間に渡ってテルモピュライに釘付けにしていなかったなら、現在のヨーロッパは無かったかもしれないわけです。

また、ローマに先んじて世界帝国を築いたアレクサンドロス大王もギリシア文明の継承者でした。
ペルシア戦争後、ペルシアの支配から解放されたマケドニアは強国となりギリシア内でのポリス間抗争で疲弊したギリシア諸ポリスを傘下におさめペルシア戦争への報復を旗印に全ギリシアを挙げてペルシア侵攻を行います。
この侵攻によりペルシア帝国は若干25歳の大王によって征服されギリシア人によるアジア帝国が打ち立てられます。
このギリシア文明とオリエント文明の融合ヘレニズム文化と呼ばれる新たな文化を生み出しました。

現在僕たちがよく知っている『仏像』、あれなんか実は偶像崇拝を禁じていた原始仏教にギリシア彫刻が結びついて、ガンダーラ地域(現在のアフガニスタン・パキスタン)にあったギリシア帝国で生まれた物なんです。

アレクサンドロス大王は30代早くに病で倒れ、死の床で『最も強い者が帝国を継げ』というマンガの世界じゃないんだからというロマンシズム全開な無茶苦茶な遺言を残したため継承者(ディアドコイ)戦争が起こりアジア全土にギリシア人の帝国が建つという時代を迎えます。

このように文明の衝突という観点から見た場合にも、テルモピュライの戦いはその後の世界の歴史に大きな影響を与える非常に大きな意味を持つ戦いだったりするのです。

というわけで何が言いたいかというとワタクシは早く『300』を見たいのです。

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このページは、Kazuyaが2007年6月14日 16:36に書いたブログ記事です。

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